人の性格は三歳くらいまでの経験によってに形成される、幼いころの経験が人の性格を決定づける、と言う意味のことわざだが、今回は「しつけ」について、私なりの考えを述べてみたいと思う。ナンデオマエガ、エラソウニ・・・となりそうなテーマで恐縮ではありますが・・・
しつけの本質を語る逸話
作家・国際ジャーナリストの落合信彦さんが語っておられた子ども頃のエピソードで、しつけのとは何か、親はどうあるべきかという問題にしつけの本質を見た気がしたので、紹介したい。
落合さんの少年時代に斉藤という友人がいた。その友人がある日万引きをして捕まったという。それを聞いた斉藤の父親は何も言わずに斉藤を連れてその店を訪れた。そして店に着き店の主人に会うなり息子の行為を謝罪し、土下座をして斉藤のしたことを詫びた。店の主人は「わかった、もういい」と許したのだが、斉藤の父親は地面にこすりつけた頭をなかなか上げようとしなかった、多くの人の面前で。それを見た斉藤は真っ青になった。あの父親をここまでさせてしまうような、ロクでもないことを自分はしてしまった・・。それ以来、斉藤は2度と万引きをしなかったという。この時、斉藤は自分がとんでもないことをしてしまったのだと、はっきり悟ったことと思う。
落合さんは戦後間もなくの生まれの方だから、もう60数年も前のことでしょうが、この父親、凄い人だなと思う、また、昔の人は当たり前のようにこんな行動をとれたのだろうな、と感心したものだ。
親が身を持って子供に示す。それは言葉ではなく行動。
これが本当のしつけ・・そこに多くの言葉はいらない、そう思わされます。

親は行動で子に示す。子供は親を見て育つということですね。
しつけは人格形成させること
最も影響を受けるのは親から
卵から孵化したヒナは最初に見たもの動くモノを親だと思い込み、あとをついていくようになる、と聞いたことがある。人間もこんな感じで、人格の形成には常に近くに存在する親から、最も大きな影響を受ける。もちろん、遺伝的に伝わる性質があるというものの、体験から形成される人格は絶大だ。幼い子供にとっては白紙のような状態に体験を書き込むようなものだからだ。社会科学だったか、心理学だったか忘れたが、人が初めてする経験を特に「処女体験」という。処女体験が白紙に近い子供の人格形成に非常に大きな影響を与えると。

幼少の体験が人格を形成していきます。幼少の頃の体験が刷り込みになっていきます。
しつけの本質は体験から
人格形成に大きな影響を与える、白紙に書き込むような幼少期の体験。どんな体験をさせるのかはやはり、身近にいる親しだいということになる。よく、「この親にしてこの子あり」と言う、子どもを見れば親にどんなしつけをされたか、体験をさせたかがわかる、ということをあらわしている、と思う。
失敗から学ばせるしつけ。
では、どのようにするとよいのだろう。しつけというのは、子供の行動に対して、親が律することではあるが、もちろん、言葉で「人に親切にせよ」「自分のことは自分でやる」と、教え込むことは必要だが、言葉だけではなく身を持って、体験をさせて学ばせることが大切だと思う。特に失敗したときにどう対処するか、したかは、強く意識に残る非常に大切なことだと思う。
割れた皿から学べばいい
食事している際に、皿を落とし割ってしまったとする。落とすことによって皿は割れるし食べ物は飛び散る。この体験により雑にモノを扱えば壊れてしまう、それによって食べ物まで無駄にしてしまうことを理解し、行儀を学ぶ。
また、小さい子供はすぐに転ぶ。親がそれを見てすぐ手助けして起こすのはいけない。なぜなら、転んでも親がすぐに助けてくれる、何かにつまずいても、きっと助けてくれると思い込むだから。そうなったら、その子にとって不幸だ。人は生きていく中で、いくらでもコケる(失敗する)。その時、誰も助けてくれないことの方が多いだろう、自分で解決しなければならないのが、世の常だから。子供の時の白紙に近い状態にそれを学ばせ(しつけ)なければいけない。
デパートに買い物に行ったとする。途中、子供がおもちゃを見つけ欲しがる。子供が欲しがるからと言ってすぐに買い与えるのは、その子の為にならないのは分かるだろう。生きていく中で思い通りにいかないし、どうしようもなく諦めなければいけない場面も出てくる。そんなことは当たり前ではあるが、子供のうちのしつけ次第で当たり前でなくなるかもしれない。子供の時にそんなこと繰り返したなら、当の本人の為にならない。
むかし、妹が生まれて間もない娘にミルクをあげていた。すぐ空にしてしまうので「哺乳瓶の口をもう少し絞って、力を込めないと出ないようにしろ。簡単にメシが食えるほど世の中は甘くないことを今から教えてやれ」。周りの人は笑っていたが、冗談だけで言ったわけではない。心からそう、思っているからだ。生きていくうえで困難は常にあるものだ、頑張らないと何も得られないから、そうしつける。

失敗をしても、生きて行く上での当たり前を体験させる。
色々な経験から、人格は形成されていく。経験をするとは、色々なところに連れて行って遊ばせると言うことなどだけではなく、失敗という経験から何かを学ばせることの方がはるかに重要だ。
「可愛い子には旅をさせよ」。失敗もするだろうが、あえて困難を体験させ成長させる。そんな意味を込めたことわざもあるではないか。
言葉によるしつけ
国や時代によっても違う美徳
ある国では「人を信じるな。騙されないように気をつけよ」と教えられるという。人をだますことが当たり前で、「人を欺いても利を得ることが美徳」だと考える民族だからこうなる(多くの国ではこの考え方が主流だが・・)。日本では「人を騙すような人間にはなるな」と教えるであろう。人を騙すことは道徳的ではないと当たり前に思っているからだ。
また、日本で、モノを落としても交番を経由したりして手元に戻ってくることに驚く外国人が話題になる。日本では大して驚くことではないが、ほとんどの外国にとっては帰ってこないことは当たり前。日本では多くの人が落とし物を拾ったら「落とした人は困っているに違いない」と仲間の心中を察するように考える人が多いのだろう。これは、人は同じ人間で仲間だという意識が、潜在下にある為だろう。
多くの外国では他人はやはり他人だから、落とし物を拾ったら「神様からの贈り物、ラッキー」と考える。
言葉による美徳・道徳・・つまり考え方のしつけ
日本の美徳、清く明きこころ。最近はなくなってしまったのかもしれないが、かつて多くの外国人が感嘆し憧れた日本の精神性。
道徳として、言葉で教え、経験として学んで行きたいものであります。
おわりに
親という字は木の上に立って見る(見守る)と書く。
子供を見守ってやるのが、親。言葉で道徳を教え、行動で示す。

昔は兄弟が多く親も手がなかなか、かけられなかったことが逆に子供に自分で考え自分で解決するという姿勢を育めたのかも・・
氏より育ち
「氏より育ち」と言う言葉があって、人は血筋で決まるものではなく、しつけなど育った環境、経験できまるものであり、人は名家の出身だから、立派だということではなく、育てられ方が良かったから人が立派になる、と言うこと。
不幸と思う心が不幸
述べてきたように、よいしつけとは、道徳的な教えの中で、経験させて学ぶ、特に失敗から学ぶことが大切だと感じる。
あと、失敗について、少し自分の考え方を述べておきたい。
生きる中で人は誰しも失敗する。絶望的な失敗もあるだろう。でも、失敗とは学ぶ為にあるし、失敗は大きな気づきにもなる。そこでその失敗を「不幸」と考えてはいけないと思う。失敗はその人にとって学びであり、気づきのキッカケになる。それを「不幸」ととらえるなら、そこでチャンスは潰える。
「不幸と思う心が不幸」
※以前読んだ高橋佳子さんの著書の中の言葉
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